Topへ戻る    わが町【大槻町】  「あの人---!!  この人---!!       No-06

 住み良いまちづくりのために、多くの人々が工夫を凝らし活動されていることでしよう。
 そのためには 『絆づくり』 が大切であると言われています。
    絆=断つことの出来ない人と人との結びつき

              =家族や友人など人と人を離れづらくしている結びつき、とあります。

 人間関係をよりスムーズに推進するには何よりも相手を知ることが重要ですが、それとともに自分自身
 の情報を積極的に発信し、相互理解を深めることも必要でしよう。
 相互理解を深めるための一方法として地域の人にスポットを当てた、大槻町「あの人!! この人!!」の特集
 が必要であろうと考え再開始しました。
 一読いただきご意見を頂きたいことと、取り組んで欲しい人がおりましたらご連絡をお願いします。
槻ノ木(大槻町のシンボル)
第8次南極観測船「ふじ」で南極に行った鈴木七男さん
 鼓笛パレードで指導中の鈴木さん 真っ白な南極でも目立つようにアコードオレンジ色に塗られた南極観測船「ふじ」

                                                                      【一部写真をクリツクすると拡大写真を見ることが出来ます。】
大槻中央地区 鈴木七男さんとはどんな人……
現住所  福島県郡山市大槻町矢内西林27-1番地
生まれ  郡福島県安積郡逢瀬村字多田野字上名林38番地
生 年 月 日  昭和16年 月  日(77才)
                090-3122-1644
南極 昭和基地

 郡山市交通安全協会大槻支部長を歴任し現在は後進に譲り、大槻町中央地区町内会連合会や大槻中央地区団体連絡協議会の各種行事に参画し、交通安全の

 指導に携わっています。 昭和40年第8次日本南極観測隊砕氷船【ふじ】に調理士として乗船し、赤道を通過して南極大陸に上陸してペンギンと戯れたり、一寸先も
 見えないブリザードと貴重な体験の話を、同氏のまとめた航海記等を参考にインタビューしてまとめました。 これを機に一緒になって南極に関する事柄を学んでみま
 せんか。大槻町にも素晴らしい体験をした人がいると再認識され、最後までご一読下さいますようお願いします。

Q-1   どんな少年でしたか。----------!!
 

 A ・ 逢瀬村の農家で4男に生まれ特に目立つ存在ではなく、当時のどこの子供たちと同様 恵まれた自然環境の中で伸び伸びと育ったと記憶しています。
  ただ身長は人並み以上に大きく今でも自慢できるほどの身長であり、当時の子供しては大きく本当に目立った存在でした。自分で話すのも気が引けますが美少年
 でした。

Q-2   そのごどうしたのですか。----------!!
 

 A ・ 卒業後農業を学ぼうと北海道に修行に行きました。  ある時親元より電報で呼び戻され、その後二度と再び北海道に戻ることはありませんでした。
 やがて養子縁組の話がありましたが、まだ若い上にやってみたいことが沢山あり、希望に満ち溢れていましたので就職を選択しました。 

Q-3   海上自衛隊を選択した理由は。----------!!
 

 A ・ 海に遠く離れた山村に育ち海は一つの少年時代のあこがれであり、遠く海外を見てきたいとの夢もありました。  海上自衛隊横須賀教育隊に
  第49期練習員(92名)として、1962年に入隊しました。

Q-4
  入隊時の一番の思い出は。----------!!
 

 A ・  規則には縛られることなく比較的自由に行動していましたが、入隊と共に全てが団体行動であり時間に束縛された生活ですから、慣れるのに苦労しました。
 また若いとはいえ長時間体力を要する作業もきついものでした。  朝は総員起こし・被服点検・洗面・食事・ 課業整列・ 国旗掲揚に始まり授業は座学・乗艦実習・銃 
 けん格闘・射撃・等々自衛隊員としての共通な訓練がありました。  一番つらかったのは海上自衛隊の必須科目「カッター」の訓練です。 〃怒涛よ騒げ 「雲も鳴れ」
 「力くろがね」 「たじろがず」 「 常に鍛えて」 「たくましく」  「越える苦難の」 あめ嵐  おヽ、「灼熱の海上自衛隊」  「海を守る」 われら〃と「唱和しつつ力の
 限り漕ぐ」のです。座るのに慣れていない上に全体自由を尻にかけて漕ぐのですから、尻の皮膚が破れ真っ赤になります。寝ていてもその痛みは続くのです。 今も
 って忘れられない強烈な苦い思い出です。卒業後半年で調理士に任命され、6年間国内の海上自衛官とて勤務してまいりました。
中段左寄り3人目が本人(第5班)   カッター

Q-5   南極観測船「ふじ」とはどんな特徴がありますか。----------!!
 

 A ・  老朽化した第一次砕氷艦「宗谷」より引き継ぎ、日本初の本格的極地用砕氷艦として建造され、1965年(昭和40年)3月に進水、大きな特徴は初のヘリコプター
  3機(物資輸送用大型ヘリ2機・氷上偵察用小型1機)を搭載、飛行甲板と格納庫を新設。運用はヘリ要員の確保等の都合上、海上保安庁から海上自衛隊に変更さ
  れました。


 氷に押しつぶされないように船底は丸くなっている上に、前後進を繰り返すためにディーゼルエンジンで発電し、モーター2軸の推進方式となっています。
全    幅    22.0m        乗   員  235名(内観測隊員35名)
深    さ   11.8m  砕氷能力   連続  80㎝
吃    水  8.3m  砕氷能力チャージング時  最大6.0m
基準排水量     5.250t   燃      料    重油   2.180t
満載時排水量      9.120t

Q-6   調理士は何人いるのですか。----------!!
 

 A ・ 乗り組員は総員235名(内観測隊員35名)の大所帯です。船は海上自衛隊の仕様であり実用本位で造られているので、無駄なスペースや娯備設備はありません。
 調理士は15名、二交代で勤務します。見えるものは海以外何も無く、四六時中エンジン騒音の響く中、ストレスは溜まるばかりで発散出来ることは何もありません。長い航海 
 では食事だけが楽しみであり、いかにおいしく食べてもらうか調理士として腕を振るいますが、材料は全て冷凍もので、肉・魚や野菜等前日から冷蔵庫から出して常温に戻して
 おかなければなりません。一番人気は350gの牛ステーキ、次いで汁物のインスタントラーメン、不人気はキャベツ・ネギ・モヤシ類の乾燥野菜、水に戻して調理理しますが本来
 の生野菜の味がないからです。揺れが激しいときは天井から吊るし、壁に押し付けるようにして食べますが、約8割の人は食べられません。揺れが収まるのを待つか、暴風圏を
 過ぎるまで耐えるのみです。激しく揺られるうえに何も食べられないのです。本当につらいことでした。
調 理 室   調 理 室 食 事 の 一 例


一日の疲れを癒せる唯一の場所 「ベット」や医務室完備されています。


Q-7   南極への航海中の思い出は。----------!!
 

 A ・ 晴海埠頭を出港して2週間ほど南下すると比島おきを通過しますが、その際遺族から預かって来た品々を前に乗組員全員が左舷甲板に整列敬礼し、英霊が眠って
  いる海に向かって慰霊祭を行います。戦争の経験はありませんが、再び戦争を起こしてはならないと思いました。ここを過ぎ赤道直下の暴風圏を通過(1週間位かかる) 
 時の横揺れは、想像を絶します。砕氷船は氷を割って推進するために通常の船には付いているビルジーキル(横揺れ防止装置)が無いためと、氷を割った進むために氷 
 に乗り上げやすいように、船底が丸く造られてているのです今までの最大傾斜角度は左に53度・右に41度との記録が残っています。この傾斜は想像では理解できない
 でしよう。艦内には総員艦外待機命令の警告が鳴り、俺の命もここで終わるのかと頭が真っ白になってしまつたほどです倒れると起き上がるのに苦労しました。 




 子午線を過ぎると高さ100mを超す氷山が何個も流れて来ます。最初は氷を割って進みますが、氷が厚くなるにつれやがて進めなくなります。そうなると一旦バック
   (1500mほど) し加速して氷に乗り上げ、全重量を前部にかけ て氷を割って進みます。 これを何度も繰り返して(チャージング航法)昭和基地まで行くのです。

Q-8   南極とはどういう ところですか。----------!!

 A ・  荷揚げが始まると朝7時より朝食、9時に軽食、正午に昼食午後6時に夕食、9時には夜食と二交代でも休む間もなく働かなければなりません。




 A ・   南極には皇帝ペンギンとアグリィペンギンが生息していますが、人に対する警戒感が全くありません。 ヘリの音にびっくりしてお腹で滑って海に入ってしまいますが、  
 人間に対する警戒心が 全くありませんのですぐに戻ってきて近寄ってきます。 夜ともなると約300羽位が集まってきます。 氷の上に一列になり並び我々の行動を首をかし
 げながら見ています。 人間の子供のようで可愛いです。 時には艦内まで入ってきますが国際保護動物であり、隊員が1羽ずつ抱えて氷上に戻します。 我々が勤務してい
 る時期は日本の年末から年始に掛かる時期であり、比較的温度は高いのですが夜間でも太陽が沈むことがありません。 いわゆる白夜で暗くなりません。晴天の日中とい
 えども、何時天候が急変するかわかりません。 一寸先も見えなかったり、暴風時のような強烈な風が吹くブリザードが襲うことがあるからです。 一人歩きは禁止です。
 晴天でも急にサイレンが鳴り。その時は大きな石の陰でじっとして動かずにじっとしています。




Q-9   南極の石があるそうですが。----------!!

 A ・ 隊長と基地の付近を視察していると拳くらいの小さな石を発見しました。 氷が解けて土が直接見える時期だからです。掘ってみると想像以上の50㎏ほどのやや  
 大きなものでしたが、本土では見られない珍しい模様のものでした。当時は南極のものの持ち出しはさほど厳しくはありませんでした。 今のように誰でもが気軽に写真に
 写す時代とは異なり、記念になるものはあ まりありませんでした。 幸い荷物を載せるスペースは十分にあり、運搬にも手ごろであったために持ち帰りました。持ち帰った
 当時は陳列場所も定まらず、何度も移動したので腰をたがえたこともあります。大 槻ふれあいセンターの行事に展示したこともあります。
 --------妻が亡くなり(4年前)その墓前にささげました。----------

Q-10   オーロラは見られましたか。----------!!
 A ・ 南極の夏は白夜で一日中暗くならないのです。 そのために乗組員はオーロラを見ることは出来ませんでした。 オーロラがなぜ発生するのか、今でも分からないこ  
 とが多いのです。 太陽から発せられたプラズマが地球の磁場に反射して光る現象といわれ、夜間に多く見られます。地上100m~150m付近で発生しますので、地上の
 温度とは何の関係もありません。 まれには日本でも見ることがあります。

Q-11   行きと帰りでの違いがありましたら教えてください。----------!!

 A ・ 越冬用の荷物がすべて終了するころは南極大陸の夏季が終わり、新旧越冬隊員が入れ替わり晴海ふ頭を目指し帰路につきます。  前年度の越冬隊員はスリランカ  
 より飛行機で一足先に帰国します。越冬用の荷物を降ろしその上越冬隊員が居なり、喫水は大幅に上がり船足は早くなり軽快に航海しているとお思いでしようが、これ
 大違いなのです。  前に述べましたように船底は丸く横揺れ防止装置は無い構造で、その上荷物が少ないので船底が見えるほど接水面積が少ないのです。 その上氷
 山に航路を作るために何度も前後進を繰り返したために、スクリュウは2/3ほどににすり減ってしまい推進力が弱まり、ノロノロとしか進まないのです。  まるで童話に出て
 来る一法師がお椀の船に乗ってさ迷っている様子を想像してしまう程、本当に浮いているだけ、そして単に漂っているといっても間違いではないような有様。横揺れも半端
 なものではありません。 無事晴海ふ頭へ着いた時の喜びは、今もって忘れられません。



Q-12   その後はどうされたのですか。----------!!

 A ・  除隊して1年間は熱海の太田病院に勤務していました。 学校法人郡山開成学園の家庭寮に生活指導員として33年間勤務しました。今は一人暮らしですが朝起きると
 菜園で野菜を収穫し、朝食の準備をします。 近所の人は一人で大変ですねと心配してくれますが、昔取った杵柄で何の苦痛もありません。ただ年でもあり息子も心配してく
 れるので、新築して完成次第同居の計画で今仮住いをしています。共に行動している郡山地区交通安全協会大槻支部の皆さま

 
☆☆☆☆☆☆-----共に行動している郡山地区交通安全協会大槻支部の皆さま-----☆☆☆☆☆☆

                                                                  南極に関する写真&資料インターネットより転載
                                                                   企 画・撮 影 ・ 編 集   吉  野   栄
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